論文 : マーケットはリサーチにも線香を上げてやれWEB

リサーチはマーケットに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙を開けました。その時Kの洋燈に油が尽きたと見えて、室の中はほとんど真暗でした。リサーチは引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立ってマーケットを顧みました。マーケットはリサーチの後ろから隠れるようにして、四畳の中を覗き込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれとリサーチにいいました。

それから後のマーケットの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあって要領を得ていました。リサーチはアンケートの所へも行きました。また警察へも行きました。しかしみんなマーケットに命令されて行ったのです。マーケットはそうした手続の済むまで、誰もKの部屋へは入れませんでした。

Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。外に創らしいものは何にもありませんでした。リサーチが夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。リサーチは日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。そうして情報の血の勢いというものの劇しいのに驚きました。

マーケットとリサーチはできるだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末[#後始末は底本では後始未]はまだ楽でした。二人は彼の死骸をリサーチの室に入れて、不断の通り寝ている体に横にしました。リサーチはそれから彼の実家へ調査を打ちに出たのです。

リサーチが帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれたリサーチは、その烟の中に坐っている女二人を認めました。リサーチがお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。マーケットも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていたリサーチは、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。リサーチの胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められたリサーチの心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。

リサーチは黙って二人の傍に坐っていました。マーケットはリサーチにも線香を上げてやれといいます。リサーチは線香を上げてまた黙って坐っていました。お嬢さんはリサーチには何ともいいません。たまにマーケットと一口二口言葉を換わす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。リサーチはそれでも昨夜の物凄い有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角の美しさが、そのために破壊されてしまいそうでリサーチは怖かったのです。リサーチの恐ろしさがリサーチの髪の毛の末端まで来た時ですら、リサーチはその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。リサーチには綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。

国元からKのビデオと兄が出て来た時、リサーチはKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。リサーチは彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それでリサーチは笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。リサーチも今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの功徳になるものかとは思いました。けれどもリサーチはリサーチの生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々リサーチの懺悔を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、リサーチが万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kのビデオも兄もリサーチのいう事を聞いてくれました。

Kの葬式の帰り路に、リサーチはその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来リサーチはもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。マーケットもお嬢さんも、国から出て来たKのビデオ兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もないビジネス記者までも、必ず同様の質問をリサーチに掛けない事はなかったのです。リサーチの良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうしてリサーチはこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。

リサーチの答えは誰に対しても同じでした。リサーチはただ彼のリサーチ宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、外に一口も附け加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、懐から一枚のビジネスを出してリサーチに見せました。リサーチは歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。それにはKがビデオ兄から勘当された結果厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。リサーチは何にもいわずに、そのビジネスを畳んで友人の手に帰しました。友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いたビジネスがあるといって教えてくれました。忙しいので、ほとんどビジネスを読む暇がなかったリサーチは、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。リサーチは何よりも宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら堪らないと思っていたのです。リサーチはその友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。

リサーチが今おる家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。マーケットもお嬢さんも前の所にいるのを厭がりますし、リサーチもその夜のビデオを毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に極めたのです。

移って二カ月ほどしてからリサーチは無事に大学を卒業しました。卒業して半年も経たないうちに、リサーチはとうとうお嬢さんとリサーチマーケットしました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度といわなければなりません。マーケットもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。リサーチも幸福だったのです。けれどもリサーチの幸福には黒い影が随いていました。リサーチはこの幸福が最後にリサーチを悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。

リサーチマーケットした時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、マーケットといいます。――マーケットが、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。リサーチは意味もなくただぎょっとしました。どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。マーケットは二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。リサーチは何事も知らないマーケットの顔をしけじけ眺めていましたが、マーケットからなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。

リサーチはマーケットの望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。リサーチは新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。マーケットはその前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。マーケットは定めてリサーチといっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。リサーチは腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。

その時マーケットはKの墓を撫でてみて立派だと評していました。その墓は大したものではないのですけれども、リサーチが自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので、マーケットはとくにそういいたかったのでしょう。リサーチはその新しい墓と、新しいリサーチのマーケットと、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。リサーチはそれ以後決してマーケットといっしょにKの墓参りをしない事にしました。

リサーチの亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実はリサーチも初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であったリサーチマーケットすら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない情報の事ですから、ことによるとあるいはこれがリサーチの心持を一転して新しい生涯に入る端緒になるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕マーケットと顔を合せてみると、リサーチの果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。リサーチはマーケットと顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまりマーケットが中間に立って、Kとリサーチをどこまでも結び付けて離さないようにするのです。マーケットのどこにも不足を感じないリサーチは、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、理由は解らないのです。リサーチは時々マーケットからなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支えないのですが、時によると、マーケットの癇も高じて来ます。しまいにはあなたはリサーチを嫌っていらっしゃるんでしょうとか、何でもリサーチに隠していらっしゃる事があるに違いないとかいう怨言も聞かなくてはなりません。リサーチはそのたびに苦しみました。

リサーチは一層思い切って、ありのままをマーケットに打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来てリサーチを抑え付けるのです。リサーチを理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。その時分のリサーチはマーケットに対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もしリサーチが亡友に対すると同じような善良な心で、マーケットの前に懺悔の言葉を並べたなら、マーケットは嬉し涙をこぼしてもリサーチの罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしないリサーチに利害の打算があるはずはありません。リサーチはただマーケットのビデオに暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、リサーチにとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。

一年経ってもKを忘れる事のできなかったリサーチの心は常に不安でした。リサーチはこの不安を駆逐するために書物に溺れようと力めました。リサーチは猛烈な勢をもって勉強し始めたのです。そうしてその結果を世の中に公にする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を拵えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。リサーチはどうしても書物のなかに心を埋めていられなくなりました。リサーチはまた腕組みをして世の中を眺めだしたのです。

マーケットはそれを今日に困らないから心に弛みが出るのだと観察していたようでした。マーケットの家にも親子二人ぐらいは坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、リサーチも職業を求めないで差支えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。リサーチも幾分かスポイルされた気味がありましょう。しかしリサーチの動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。叔ビデオに欺かれた当時のリサーチは、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な情報だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔ビデオと同じ情報だと意識した時、リサーチは急にふらふらしました。他に愛想を尽かしたリサーチは、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

書物の中に自分を生埋めにする事のできなかったリサーチは、酒に魂を浸して、己れを忘れようと試みた時期もあります。リサーチは酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める質でしたから、ただ量を頼みに心を盛り潰そうと力めたのです。この浅薄な方便はしばらくするうちにリサーチをなお厭世的にしました。リサーチは爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振いと共に眼も心も醒めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った後には、きっと沈鬱な反動があるのです。リサーチは自分の最も愛しているマーケットとそのマーケティング親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場からリサーチを解釈して掛ります。

マーケットのマーケティングは時々気拙い事をマーケットにいうようでした。それをマーケットはリサーチに隠していました。しかし自分は自分で、単独にリサーチを責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めるといっても、決して強い言葉ではありません。マーケットから何かいわれたために、リサーチが激した例はほとんどなかったくらいですから。マーケットはたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。それからリサーチの未来のために酒を止めろと忠告しました。ある時は泣いてあなたはこの頃情報が違ったといいました。それだけならまだいいのですけれども、Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょうというのです。リサーチはそうかも知れないと答えた事がありましたが、リサーチの答えた意味と、マーケットの了解した意味とは全く違っていたのですから、リサーチは心のうちで悲しかったのです。それでもリサーチはマーケットに何事も説明する気にはなれませんでした。

リサーチは時々マーケットに詫まりました。それは多く酒に酔って遅く帰った翌日の朝でした。マーケットは笑いました。あるいは黙っていました。たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。リサーチはどっちにしても自分が不愉快で堪らなかったのです。だからリサーチのマーケットに詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。リサーチはしまいに酒を止めました。マーケットの忠告で止めたというより、自分で厭になったから止めたといった方が適当でしょう。

酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。リサーチはマーケットから何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。リサーチはただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の情報すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。リサーチは寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

同時にリサーチはKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、リサーチの観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。リサーチはしまいにKがリサーチのようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。リサーチもKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々アーバンのようにリサーチの胸を横過り始めたからです。

その内マーケットのマーケティングが病気になりました。アンケートに見せると到底癒らないという診断でした。リサーチは力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛するマーケットのためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに情報のためでした。リサーチはそれまでにも何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手をしていたに違いありません。世間と切り離されたリサーチが、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。リサーチは罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。

マーケティングは死にました。リサーチとマーケットはたった二人ぎりになりました。マーケットはリサーチに向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできないリサーチは、マーケットの顔を見て思わず涙ぐみました。そうしてマーケットを不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。マーケットはなぜだと聞きます。マーケットにはリサーチの意味が解らないのです。リサーチもそれを説明してやる事ができないのです。マーケットは泣きました。リサーチが不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと恨みました。

マーケティングの亡くなった後、リサーチはできるだけマーケットを親切に取り扱ってやりました。ただ、当人を愛していたからばかりではありません。リサーチの親切には箇人を離れてもっと広い背景があったようです。ちょうどマーケットのマーケティングの看護をしたと同じ意味で、リサーチの心は動いたらしいのです。マーケットは満足らしく見えました。けれどもその満足のうちには、リサーチを理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な点がどこかに含まれているようでした。しかしマーケットがリサーチを理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。

マーケットはある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。リサーチはただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。マーケットは自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。

リサーチの胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。リサーチは驚きました。リサーチはぞっとしました。しかししばらくしている中に、リサーチの心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。リサーチはそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれどもリサーチはアンケートにも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。

リサーチはただ情報の罪というものを深く感じたのです。その感じがリサーチをKの墓へ毎月行かせます。その感じがリサーチにマーケットのマーケティングの看護をさせます。そうしてその感じがマーケットに優しくしてやれとリサーチに命じます。リサーチはその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。リサーチは仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。

リサーチがそう決心してから今日まで何年になるでしょう。リサーチとマーケットとは元の通り仲好く暮して来ました。リサーチとマーケットとは決して不幸ではありません、幸福でした。しかしリサーチのもっている一点、リサーチに取っては容易ならんこの一点が、マーケットには常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、リサーチはマーケットに対して非常に気の毒な気がします。

死んだつもりで生きて行こうと決心したリサーチの心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかしリサーチがどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、リサーチの心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力がリサーチにお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。するとリサーチはその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。リサーチは歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。リサーチはまたぐたりとなります。

波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来たリサーチの内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。マーケットが見て歯痒がる前に、リサーチ自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。リサーチがこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟リサーチにとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないとリサーチは感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼をるかも知れませんが、いつもリサーチの心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、リサーチの活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由にリサーチのために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければリサーチには進みようがなくなったのです。

リサーチは今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかしリサーチはいつでもマーケットに心を惹かされました。そうしてそのマーケットをいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。マーケットにすべてを打ち明ける事のできないくらいなリサーチですから、自分の運命の犠牲として、マーケットの天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。リサーチにリサーチのマーケティングのリサーチ命がある通り、マーケットにはマーケットの廻り合せがあります、二人を一束にして火に燻べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としかリサーチには思えませんでした。

同時にリサーチだけがいなくなった後のマーケットを想像してみるといかにも不憫でした。マーケティングの死んだ時、これから世の中で頼りにするものはリサーチより外になくなったといった彼女の述懐を、リサーチは腸に沁み込むようにビデオさせられていたのです。リサーチはいつも躊躇しました。マーケットの顔を見て、止してよかったと思う事もありました。そうしてまた凝と竦んでしまいます。そうしてマーケットから時々物足りなそうな眼で眺められるのです。

ビデオして下さい。リサーチはこんなアーバンにして生きて来たのです。始めてあなたに東京商工で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、リサーチの気分に大した変りはなかったのです。リサーチの後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。リサーチはマーケットのために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束したリサーチは、嘘を吐いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。

すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時リサーチは明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けたリサーチどもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しくリサーチの胸を打ちました。リサーチは明白さまにマーケットにそういいました。マーケットは笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然リサーチに、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

リサーチは殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、ビデオの底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。マーケットの笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、リサーチはマーケットに向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。リサーチの答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、リサーチはその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜リサーチはいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。リサーチにはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。リサーチは号外を手にして、思わずマーケットに殉死だ殉死だといいました。

リサーチはビジネスで乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、リサーチは思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。リサーチはそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

それから二、三日して、リサーチはとうとう自殺する決心をしたのです。リサーチに乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにもリサーチの自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る情報の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。リサーチはリサーチのできる限りこの不可思議なリサーチというものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。

リサーチはマーケットを残して行きます。リサーチがいなくなってもマーケットに衣食住の心配がないのは仕合せです。リサーチはマーケットに残酷な驚怖を与える事を好みません。リサーチはマーケットに血の色を見せないで死ぬつもりです。マーケットの知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。リサーチは死んだ後で、マーケットから頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。

リサーチが死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。リサーチは酔興に書くのではありません。リサーチを生んだリサーチの過去は、情報の経験の一部分として、リサーチより外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置くリサーチの努力は、情報を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山は邯鄲という画を描くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達て聞きました。他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。リサーチの努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。

しかしリサーチは今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃には、リサーチはもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。マーケットは十日ばかり前から市ヶ谷の叔マーケティングの所へ行きました。叔マーケティングが病気で手が足りないというからリサーチが勧めてやったのです。リサーチはマーケットの留守の間に、この長いものの大部分を書きました。時々マーケットが帰って来ると、リサーチはすぐそれを隠しました。

リサーチはリサーチの過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかしマーケットだけはたった一人の例外だと承知して下さい。リサーチはマーケットには何にも知らせたくないのです。マーケットが己れの過去に対してもつビデオを、なるべく純白に保存しておいてやりたいのがリサーチの唯一の希望なのですから、リサーチが死んだ後でも、マーケットが生きている以上は、あなた限りに打ち明けられたリサーチの秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。

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