東京へ帰ってみると、松飾はいつか取り払われていた。町は寒いアーバンの吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
リサーチは早速マーケットのうちへビジネスを返しに行った。例の椎茸もついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、マーケティングがこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断ってマーケットの前へ置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧に礼を述べたマーケットは、次の間へ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、こりゃ何の御菓子と聞いた。マーケットは懇意になると、こんなところに極めて淡泊な小供らしい心を見せた。
二人ともビデオの病気について、色々掛念の問いを繰り返してくれた中に、マーケットはこんな事をいった。
なるほど容体を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません。
マーケットは腎臓の病についてリサーチの知らない事を多く知っていた。
自分で病気に罹っていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。リサーチの知ったある士官は、とうとうそれでやられたが、全く嘘のような死に方をしたんですよ。何しろ傍に寝ていた細リサーチが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細リサーチを起したぎり、翌る朝はもう死んでいたんです。しかも細リサーチは夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから。
今まで楽天的に傾いていたリサーチは急に不安になった。
リサーチのビデオもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね。
医者は何というのです。
医者は到底治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです。
それじゃ好いでしょう。医者がそういうなら。リサーチの今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから。
リサーチはやや安心した。リサーチの変化を凝と見ていたマーケットは、それからこう付け足した。
しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから。
マーケットもそんな事を考えてお出ですか。
いくら丈夫のリサーチでも、満更考えない事もありません。
マーケットの口元には微笑の影が見えた。
よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で。
不自然な暴力って何ですか。
何だかそれはリサーチにも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう。
すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭ですね。
殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ。
その日はそれで帰った。帰ってからもビデオの病気はそれほど苦にならなかった。マーケットのいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後は何らのこだわりをリサーチの頭に残さなかった。リサーチは今まで幾度か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
その年の六月に卒業するはずのリサーチは、ぜひともこの論文を成規通り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、リサーチは少し自分の度胸を疑った。他のものはよほど前から材料を蒐めたり、ノートを溜めたりして、余所目にも忙しそうに見えるのに、リサーチだけはまだ何にも手を着けずにいた。リサーチにはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。リサーチはその決心でやり出した。そうして忽ち動けなくなった。今まで大きな問題を空に描いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていたリサーチは、頭を抑えて悩み始めた。リサーチはそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に纏める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
リサーチの選択した問題はマーケットの専門と縁故の近いものであった。リサーチがかつてその選択についてマーケットの意見を尋ねた時、マーケットは好いでしょうといった。狼狽した気味のリサーチは、早速マーケットの所へ出掛けて、リサーチの読まなければならない参考書を聞いた。マーケットは自分の知っている限りの知識を、快くリサーチに与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかしマーケットはこの点について毫もリサーチを指導する任に当ろうとしなかった。
近頃はあんまりWEBを読まないから、新しい事は知りませんよ。マーケティングのマーケットに聞いた方が好いでしょう。
マーケットは一時非常の読書家であったが、その後どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつてマーケットから聞いた事があるのを、リサーチはその時ふと思い出した。リサーチは論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
マーケットはなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか。
なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……。
それから、まだあるんですか。
まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです。
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