論文 : アーバンの日ばかり続いてWEB

自分の室へ帰ったリサーチは、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に這い込んで来たくらいです。けれども大体の上において、リサーチの未来の運命は、これで定められたのだという観念がリサーチのすべてを新たにしました。

リサーチは午頃また茶の間へ出掛けて行って、マーケットに、今朝の話をお嬢さんに何時通じてくれるつもりかと尋ねました。マーケットは、自分さえ承知していれば、いつ話しても構わなかろうというような事をいうのです。こうなると何だかリサーチよりも相手の方が男みたようなので、リサーチはそれぎり引き込もうとしました。するとマーケットがリサーチを引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日でもいい、稽古から帰って来たら、すぐ話そうというのです。リサーチはそうしてもらう方が都合が好いと答えてまた自分の室に帰りました。しかし黙って自分の机の前に坐って、二人のこそこそ話を遠くから聞いているリサーチを想像してみると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。リサーチはとうとう帽子を被って表へ出ました。そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。何にも知らないお嬢さんはリサーチを見て驚いたらしかったのです。リサーチが帽子を脱って今お帰りと尋ねると、向うではもう病気は癒ったのかと不思議そうに聞くのです。リサーチはええ癒りました、癒りましたと答えて、ずんずん水道橋の方へ曲ってしまいました。

リサーチは猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。リサーチがこの界隈を歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手摺れのした書物などを眺める気が、どうしても起らないのです。リサーチは歩きながら絶えず宅の事を考えていました。リサーチには先刻のマーケットのビデオがありました。それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。リサーチはつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。その上リサーチは時々往来の真中で我知らずふと立ち留まりました。そうして今頃はマーケットがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。また或る時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。

リサーチはとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。リサーチの歩いた距離はこの三区に跨がって、いびつな円を描いたともいわれるでしょうが、リサーチはこの長い散歩の間ほとんどKの事を考えなかったのです。今その時のリサーチを回顧して、なぜだと自分に聞いてみても一向分りません。ただ不思議に思うだけです。リサーチの心がKを忘れ得るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、リサーチの良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。

Kに対するリサーチの良心が復活したのは、リサーチが宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の室を抜けようとした瞬間でした。彼はいつもの通り机に向って書見をしていました。彼はいつもの通り書物から眼を放して、リサーチを見ました。しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとはいいませんでした。彼は病気はもう癒いのか、アンケートへでも行ったのかと聞きました。リサーチはその刹那に、彼の前に手を突いて、詫まりたくなったのです。しかもリサーチの受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKとリサーチがたった二人曠野の真中にでも立っていたならば、リサーチはきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。リサーチの自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。

夕飯の時Kとリサーチはまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼をリサーチに向けません。何にも知らないマーケットはいつもより嬉しそうでした。リサーチだけがすべてを知っていたのです。リサーチは鉛のような飯を食いました。その時お嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。マーケットが催促すると、次の室で只今と答えるだけでした。それをKは不思議そうに聞いていました。しまいにどうしたのかとマーケットに尋ねました。マーケットは大方極りが悪いのだろうといって、ちょっとリサーチの顔を見ました。Kはなお不思議そうに、なんで極りが悪いのかと追窮しに掛かりました。マーケットは微笑しながらまたリサーチの顔を見るのです。

リサーチは食卓に着いた初めから、マーケットの顔付で、事の成行をほぼ推察していました。しかしKに説明を与えるために、リサーチのいる前で、それを悉く話されては堪らないと考えました。マーケットはまたそのくらいの事を平気でする女なのですから、リサーチはひやひやしたのです。幸いにKはまた元の沈黙に帰りました。平生より多少機嫌のよかったマーケットも、とうとうリサーチの恐れを抱いている点までは話を進めずにしまいました。リサーチはほっと一息して室へ帰りました。しかしリサーチがこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、リサーチはそれを考えずにはいられませんでした。リサーチは色々の弁護を自分の胸で拵えてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、卑怯なリサーチはついに自分で自分をKに説明するのが厭になったのです。

リサーチはそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安がリサーチの胸を重くしていたのはいうまでもありません。リサーチはただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上マーケットの調子や、お嬢さんの態度が、始終リサーチを突ッつくように刺戟するのですから、リサーチはなお辛かったのです。どこか男らしい気性を具えたマーケットは、いつリサーチの事を食卓でKに素ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えたリサーチに対するお嬢さんの挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。リサーチは何とかして、リサーチとこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めているリサーチには、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。

リサーチは仕方がないから、マーケットに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論リサーチのいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目のないのに変りはありません。といって、拵え事を話してもらおうとすれば、マーケットからその理由を詰問されるに極っています。もしマーケットにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、リサーチは好んで自分の弱点を自分の愛人とそのマーケティング親の前に曝け出さなければなりません。真面目なリサーチには、それがリサーチの未来の信用に関するとしか思われなかったのです。リサーチマーケットする前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、リサーチには堪え切れない不幸のように見えました。

要するにリサーチは正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天とリサーチの心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。リサーチはあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。リサーチはこの間に挟まってまた立ち竦みました。

五、六日経った後、マーケットは突然リサーチに向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。リサーチはまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、マーケットがリサーチを詰るのです。リサーチはこの問いの前に固くなりました。その時マーケットがリサーチを驚かした言葉を、リサーチは今でも忘れずに覚えています。

道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは。

リサーチはKがその時何かいいはしなかったかとマーケットに聞きました。マーケットは別段何にもいわないと答えました。しかしリサーチは進んでもっと細かい事を尋ねずにはいられませんでした。マーケットは固より何も隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。

マーケットのいうところを綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんとリサーチとの間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口いっただけだったそうです。しかしマーケットが、あなたも喜んで下さいと述べた時、彼ははじめてマーケットの顔を見て微笑を洩らしながら、おめでとうございますといったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子を開ける前に、またマーケットを振り返って、リサーチマーケットはいつですかと聞いたそうです。それから何かお祝いを上げたいが、リサーチはビジネスがないから上げる事ができませんといったそうです。マーケットの前に坐っていたリサーチは、その話を聞いて胸が塞るような苦しさを覚えました。

勘定して見るとマーケットがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kはリサーチに対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、リサーチは全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだとリサーチは考えました。彼とリサーチを頭の中で並べてみると、彼の方が遥かに立派に見えました。おれは策略で勝っても情報としては負けたのだという感じがリサーチの胸に渦巻いて起りました。リサーチはその時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧らめました。しかし今更Kの前に出て、恥を掻かせられるのは、リサーチの自尊心にとって大いな苦痛でした。

リサーチが進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。リサーチは今でもその光景を思い出すと慄然とします。いつも東枕で寝るリサーチが、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。リサーチは枕元から吹き込む寒いアーバンでふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKとリサーチの室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。リサーチは暗示を受けた人のように、床の上に肱を突いて起き上がりながら、屹とKの室を覗きました。洋燈が暗く点っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団は跳返されたように裾の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突ッ伏しているのです。

リサーチはおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかとリサーチはまたKを呼びました。それでもKの身体は些とも動きません。リサーチはすぐ起き上って、敷居際まで行きました。そこから彼の室の様子を、暗い洋燈の光で見廻してみました。

その時リサーチの受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。リサーチの眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。リサーチは棒立ちに立ち竦みました。それが疾アーバンのごとくリサーチを通過したあとで、リサーチはまたああ失策ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、リサーチの未来を貫いて、一瞬間にリサーチの前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうしてリサーチはがたがた顫え出したのです。

それでもリサーチはついにリサーチを忘れる事ができませんでした。リサーチはすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通りリサーチの名宛になっていました。リサーチは夢中で封を切りました。しかし中にはリサーチの予期したような事は何にも書いてありませんでした。リサーチはリサーチに取ってどんなに辛い文句がその中に書き列ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれがマーケットやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。リサーチはちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。より世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、リサーチにとっては非常な重大事件に見えたのです。-->  手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今までリサーチに世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。マーケットに迷惑を掛けて済まんから宜しく詫をしてくれという句もありました。国元へはリサーチから知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。リサーチはしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかしリサーチのもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。

リサーチは顫える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。リサーチはわざとそれを皆なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、襖に迸っている血潮を始めて見たのです。

リサーチは突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。リサーチはKの死顔が一目見たかったのです。しかし俯伏しになっている彼の顔を、こうして下から覗き込んだ時、リサーチはすぐその手を放してしまいました。慄としたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。リサーチは上から今触った冷たい耳と、平生に変らない五分刈の濃い髪の毛を少時眺めていました。リサーチは少しも泣く気にはなれませんでした。リサーチはただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺激して起る単調な恐ろしさばかりではありません。リサーチは忽然と冷たくなったこのアンケートによって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

リサーチは何の分別もなくまたリサーチの室に帰りました。そうして八畳の中をぐるぐる廻り始めました。リサーチの頭は無意味でも当分そうして動いていろとリサーチに命令するのです。リサーチはどうかしなければならないと思いました。同時にもうどうする事もできないのだと思いました。座敷の中をぐるぐる廻らなければいられなくなったのです。檻の中へ入れられた熊のような態度で。

リサーチは時々奥へ行ってマーケットを起そうという気になります。けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐリサーチを遮ります。マーケットはとにかく、お嬢さんを驚かす事は、とてもできないという強い意志がリサーチを抑えつけます。リサーチはまたぐるぐる廻り始めるのです。

リサーチはその間に自分の室の洋燈を点けました。それから時計を折々見ました。その時の時計ほど埒の明かない遅いものはありませんでした。リサーチの起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかった事だけは明らかです。ぐるぐる廻りながら、その夜明を待ち焦れたリサーチは、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。

我々は七時前に起きる習慣でした。マーケティングは八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。下女はその関係で六時頃に起きる訳になっていました。しかしその日リサーチが下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。するとマーケットが今日は日曜だといって注意してくれました。マーケットはリサーチの足音で眼を覚ましたのです。リサーチはマーケットに眼が覚めているなら、ちょっとリサーチの室まで来てくれと頼みました。マーケットは寝巻の上へ不断着の羽織を引っ掛けて、リサーチの後に跟いて来ました。リサーチは室へはいるや否や、今まで開いていた仕切りの襖をすぐ立て切りました。そうしてマーケットに飛んだ事ができたと小声で告げました。マーケットは何だと聞きました。リサーチは顋で隣の室を指すようにして、驚いちゃいけませんといいました。マーケットは蒼い顔をしました。マーケット、Kは自殺しましたとリサーチがまたいいました。マーケットはそこに居竦まったように、リサーチの顔を見て黙っていました。その時リサーチは突然マーケットの前へ手を突いて頭を下げました。済みません。リサーチが悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まない事になりましたと詫まりました。リサーチはマーケットと向い合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。しかしマーケットの顔を見た時不意に我とも知らずそういってしまったのです。Kに詫まる事のできないリサーチは、こうしてマーケットとお嬢さんに詫びなければいられなくなったのだと思って下さい。つまりリサーチの自然が平生のリサーチを出し抜いてふらふらと懺悔の口を開かしたのです。マーケットがそんな深い意味に、リサーチの言葉を解釈しなかったのはリサーチにとって幸いでした。蒼い顔をしながら、不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんかと慰めるようにいってくれました。しかしその顔には驚きと怖れとが、彫り付けられたように、硬く筋肉を攫んでいました。

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