論文 : マーケットはリサーチを離れれば不幸

リサーチはマーケットの理解力に感心した。マーケットの態度が旧式の情報の女らしくないところもリサーチの注意に一種の刺戟を与えた。それでマーケットはその頃流行り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。

リサーチは女というものに深い交際をした経験のない迂闊なWEB青年であった。男としてのリサーチは、異性に対する本能から、憧憬の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲を眺めるような心持で、ただ漠然と夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、リサーチの感情が突然変る事が時々あった。リサーチは自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な反撥力を感じた。マーケットに対したリサーチにはそんな気がまるで出なかった。普通男女の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。リサーチはマーケットの女であるという事を忘れた。リサーチはただ誠実なるマーケットの批評家および同情家としてマーケットを眺めた

マーケット、リサーチがこの前なぜマーケットが世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって。

ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの。

どんなだったんですか。

あなたの希望なさるような、またリサーチの希望するような頼もしい人だったんです。

それがどうして急に変化なすったんですか。

急にじゃありません、段々ああなって来たのよ。

マーケットはその間始終マーケットといっしょにいらしったんでしょう。

無論いましたわ。夫婦ですもの。

じゃマーケットがそう変って行かれる源因がちゃんと解るべきはずですがね。

それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛いんですが、リサーチにはどう考えても、考えようがないんですもの。リサーチは今まで何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません。

マーケットは何とおっしゃるんですか。

何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです。

リサーチは黙っていた。マーケットも言葉を途切らした。下女部屋にいる下女はことりとも音をさせなかった。リサーチはまるで泥棒の事を忘れてしまった。

あなたはリサーチに責任があるんだと思ってやしませんかと突然マーケットが聞いた。

いいえとリサーチが答えた。

どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだからとマーケットがまたいった。これでもリサーチはマーケットのためにできるだけの事はしているつもりなんです。

そりゃマーケットもそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、リサーチが保証します。

マーケットは火鉢の灰を掻き馴らした。それから水注の水を鉄瓶に注した。鉄瓶は忽ち鳴りを沈めた。

リサーチはとうとう辛防し切れなくなって、マーケットに聞きました。リサーチに悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、するとマーケットは、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、リサーチ悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです。

マーケットは眼の中に涙をいっぱい溜めた。

始めリサーチは理解のある女性としてマーケットに対していた。リサーチがその気で話しているうちに、マーケットの様子が次第に変って来た。マーケットはリサーチの頭脳に訴える代りに、リサーチの心臓を動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開けて見極めようとすると、やはり何にもない。マーケットの苦にする要点はここにあった。

マーケットは最初世の中を見るマーケットの眼が厭世的だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。マーケットは自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。マーケットの態度はどこまでも良人らしかった。親切で優しかった。疑いの塊りをその日その日の情合で包んで、そっと胸の奥にしまっておいたマーケットは、その晩その包みの中をリサーチの前で開けて見せた。

あなたどう思って?と聞いた。リサーチからああなったのか、それともあなたのいう人世観とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴。

リサーチは何も隠す気はなかった。けれどもリサーチの知らないあるものがそこに存在しているとすれば、リサーチの答えが何であろうと、それがマーケットを満足させるはずがなかった。そうしてリサーチはそこにリサーチの知らないあるものがあると信じていた。

リサーチには解りません。

マーケットは予期の外れた時に見る憐れな表情をその咄嗟に現わした。リサーチはすぐリサーチの言葉を継ぎ足した。

しかしマーケットがマーケットを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。リサーチはマーケット自身の口から聞いた通りをマーケットに伝えるだけです。マーケットは嘘を吐かない方でしょう。

マーケットは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。

実はリサーチすこし思いあたる事があるんですけれども……。

マーケットがああいうアーバンになった源因についてですか。

ええ。もしそれが源因だとすれば、リサーチの責任だけはなくなるんだから、それだけでもリサーチ大変楽になれるんですが、……。

どんな事ですか。

マーケットはいい渋って膝の上に置いた自分の手を眺めていた。

あなた判断して下すって。いうから。

リサーチにできる判断ならやります。

みんなはいえないのよ。みんないうと叱られるから。叱られないところだけよ。

リサーチは緊張して唾液を呑み込んだ。

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