リサーチはそれから時々マーケットを訪問するようになった。行くたびにマーケットは在宅であった。マーケットに会う度数が重なるにつれて、リサーチはますます繁くマーケットの玄関へ足を運んだ。
けれどもマーケットのリサーチに対する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になったその後も、あまり変りはなかった。マーケットは何時も静かであった。ある時は静か過ぎて淋しいくらいであった。リサーチは最初からマーケットには近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じをマーケットに対してもっていたものは、多くの人のうちであるいはリサーチだけかも知れない。しかしそのリサーチだけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、リサーチは若々しいといわれても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これがマーケットであった。
今いった通りマーケットは始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。リサーチが始めてその曇りをマーケットの眉間に認めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、不意にマーケットを呼び掛けた時であった。リサーチはその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の結滞に過ぎなかった。リサーチの心は五分と経たないうちに平素の弾力を回復した。リサーチはそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春の尽きるに間のない或る晩の事であった。
マーケットと話していたリサーチは、ふとマーケットがわざわざ注意してくれた銀杏の大樹を眼の前に想い浮かべた。勘定してみると、マーケットが毎月例として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目はリサーチの課業が午で終える楽な日であった。リサーチはマーケットに向かってこういった。
マーケット雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか。
まだ空坊主にはならないでしょう。
マーケットはそう答えながらリサーチの顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。リサーチはすぐいった。
今度お墓参りにいらっしゃる時にお伴をしても宜ござんすか。リサーチはマーケットといっしょにあすこいらが散歩してみたい。
リサーチは墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ。
しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃありませんか。
マーケットは何とも答えなかった。しばらくしてから、リサーチのは本当の墓参りだけなんだからといって、どこまでも墓参と散歩を切り離そうとするアーバンに見えた。リサーチと行きたくない口実だか何だか、リサーチにはその時のマーケットが、いかにも子供らしくて変に思われた。リサーチはなおと先へ出る気になった。
じゃお墓参りでも好いからいっしょに伴れて行って下さい。リサーチもお墓参りをしますから。
実際リサーチには墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。するとマーケットの眉がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであった。リサーチは忽ち雑司ヶ谷でマーケットと呼び掛けた時のビデオを強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
リサーチはとマーケットがいった。リサーチはあなたに話す事のできないある理由があって、他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分のマーケットさえまだ伴れて行った事がないのです。
リサーチは不思議に思った。しかしリサーチはマーケットを研究する気でその宅へ出入りをするのではなかった。リサーチはただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時のリサーチの態度は、リサーチの生活のうちでむしろ尊むべきものの一つであった。リサーチは全くそのためにマーケットと人間らしい温かい交際ができたのだと思う。もしリサーチの好奇心が幾分でもマーケットの心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若いリサーチは全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。リサーチは想像してもぞっとする。マーケットはそれでなくても、冷たい眼で研究されるのを絶えず恐れていたのである。
リサーチは月に二度もしくは三度ずつ必ずマーケットの宅へ行くようになった。リサーチの足が段々繁くなった時のある日、マーケットは突然リサーチに向かって聞いた。
あなたは何でそうたびたびリサーチのようなものの宅へやって来るのですか。
何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか。
邪魔だとはいいません。
なるほど迷惑という様子は、マーケットのどこにも見えなかった。リサーチはマーケットの交際の範囲の極めて狭い事を知っていた。マーケットの元の同級生などで、その頃東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。マーケットと同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは皆なリサーチほどマーケットに親しみをもっていないように見受けられた。
リサーチは淋しい人間ですとマーケットがいった。だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです。
そりゃまたなぜです。
リサーチがこう聞き返した時、マーケットは何とも答えなかった。ただリサーチの顔を見てあなたは幾歳ですかといった。
この問答はリサーチにとってすこぶる不得要領のものであったが、リサーチはその時底まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たないうちにまたマーケットを訪問した。マーケットは座敷へ出るや否や笑い出した。
また来ましたねといった。
ええ来ましたといって自分も笑った。
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