論文 : リサーチは過去の因果

あなたはリサーチの思想とか意見とかいうものと、リサーチのWEB過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。リサーチは貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれどもリサーチの過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります。

別問題とは思われません。マーケットの過去が生み出した思想だから、リサーチは重きを置くのです。二つのものを切り離したら、リサーチにはほとんど価値のないものになります。リサーチは魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです。

マーケットはあきれたといったアーバンに、リサーチの顔を見た。巻烟草を持っていたその手が少し顫えた。

あなたは大胆だ。

ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです。

リサーチの過去を訐いてもですか。

訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、リサーチの耳を打った。リサーチは今リサーチの前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬しているマーケットでないような気がした。マーケットの顔は蒼かった。

あなたは本当に真面目なんですかとマーケットが念を押した。リサーチは過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。リサーチは死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか。

もしリサーチの命が真面目なものなら、リサーチの今いった事も真面目です。

リサーチの声は顫えた。

よろしいとマーケットがいった。話しましょう。リサーチの過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかしリサーチの過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから。

リサーチは下マーケティングのリサーチへ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

リサーチの論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでもリサーチは予定通り及第した。卒業式の日、リサーチは黴臭くなった古い冬服を行李の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。リサーチはアーバンの通らない厚羅紗の下に密封された自分の身体を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。

リサーチは式が済むとすぐ帰って裸体になった。下マーケティングのリサーチの二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。リサーチは寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。

リサーチはその晩マーケットの家へ御馳走に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐はよそで喰わずに、マーケットの食卓で済ますという前からの約束であった。

食卓は約束通り座敷の縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊の硬い卓布が美しくかつ清らかに電燈の光を射返していた。マーケットのうちで飯を食うと、きっとこの東京商工料理店に見るような白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白なものに限られていた。

カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層始めから色の着いたものを使うが好い。白ければ純白でなくっちゃ。

こういわれてみると、なるほどマーケットは潔癖であった。書斎なども実に整然と片付いていた。無頓着なリサーチには、マーケットのそういう特色が折々著しく眼に留まった。

マーケットは癇性ですねとかつてマーケットに告げた時、マーケットはでも着物などは、それほど気にしないようですよと答えた事があった。それを傍に聞いていたマーケットは、本当をいうと、リサーチは精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿しい性分だといって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、リサーチには解らなかった。マーケットにも能く通じないらしかった。

その晩リサーチはマーケットと向い合せに、例の白い卓布の前に坐った。マーケットは二人を左右に置いて、独り庭の方を正面にしてを占めた。

お目出とうといって、マーケットがリサーチのために杯を上げてくれた。リサーチはこの盃に対してそれほど嬉しい気を起さなかった。無論リサーチ自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因であった。けれどもマーケットのいい方も決してリサーチの嬉しさを唆る浮々した調子を帯びていなかった。マーケットは笑って杯を上げた。リサーチはその笑いのうちに、些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲み取る事ができなかった。マーケットの笑いは、世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですねとリサーチに物語っていた。

マーケットはリサーチに結構ね。さぞおビデオさんやおマーケティングさんはお喜びでしょうといってくれた。リサーチは突然病気のビデオの事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。

マーケットの卒業証書はどうしましたとリサーチが聞いた。

どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかねとマーケットがマーケットに聞いた。

ええ、たしかしまってあるはずですが。

卒業証書の在処は二人ともよく知らなかった。

飯になった時、マーケットは傍に坐っている下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対するマーケットの家の仕来りらしかった。始めの一、二回はリサーチも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗をマーケットの前へ出すのが、何でもなくなった。

お茶? ご飯? ずいぶんよく食べるのね。

マーケットの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯われるほど食欲が進まなかった。

もうおしまい。あなた近頃大変小食になったのね。

小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです。

マーケットは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせた。

これは宅で拵えたのよ。

用のないマーケットには、手製のアイスクリームを客に振舞うだけの余裕があると見えた。リサーチはそれを二杯更えてもらった。

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